2013年2月13日水曜日

日満共福主義 (ユーラシヤ主義宣言、若しくは、ユーラシア主義宣言)

日満共福主義 (ユーラシヤ主義宣言、若しくは、ユーラシア主義宣言)

嶋野三郎(島野三郎)氏の著作及び訳述を収録した嶋野三郎(島野三郎)著作集第一巻(理想日本社1988年9月22日初版発行、1989年1月1日改訂重版発行)より、「日満共福主義」の外装、並びに本文を画像データでアップロードする。
1932年、ユ-ラシヤ学派によって、プラハで発表された「ユ-ラシヤ主義宣言」は、満鉄調査部の嶋野三郎氏によって翻訳され、諸般の事情から、原著者名を記すことなく、訳者名にて、笠木良明氏の主宰せる大亜細亜建設社発行の雑誌『大亜細亜』の昭和八年八月、九月号に掲載された。尚、掲載にあたっては、原題を「日満共福主義」と改めている。
上掲雑誌の刊行された昭和八年の初夏は、満州国建国、五・一五事件、国際連盟脱退等、我が国の政治が最も混沌としていた時である。多様な政治勢力が拮抗していた時代に、強力な主張をする(立場を明確にする)ことは、勇気もいり、波紋も大きかったに違いない。満州在住の亡命ロシヤ人の安全を考えれば、この訳稿にロシヤ人名を使うことは出来ない。しかし、当時の時局の収拾策として、この論文に画期的な価値を見い出していた嶋野氏は、敢えて自らの名前を使い掲載、一部軍部との対立を明確にさせて行く。結果は、ニ・ニ六事件後の弾圧へと繋がり、彼は民間人ではあるが、陸軍刑務所に六か月も収監され、後、二年に渡るフランス滞在を余儀なくされる。
これより後、自らの名前を政治的主張に使用することが憚られた嶋野氏は、多様な筆名を使用するが、彼の翻訳したユ-ラシヤ学派の論稿も、この後は、一部を除き、架空の日本人名にて刊行されることとなる。
合掌。


参考 一
日満共福主義が掲載された大亜細亜第一巻第四号及び五号


参考 二
Manabu Goda  "The legacy of Genghis Khan and the Eurasian school"
合田學著『成吉思汗の遺産とユ-ラシヤ学派(学習院大学言語共同研究所紀要、第21号・1997)』 

Saburo Shimano18931981recognized that the social theory of  the Eurasian schoolone of the Russian refugee scholar groupsand that of Ikki Kita1883-1937are quite similarHe translated and published a large number of their articles as the works of the research department of the South Manchuria Railway Company. Among those who read the translations were young staff members of the Company and young officersThough it is almost impossible to infer how the reading influenced them in planning the reconstruction of the Japanese nationthe author mentioned their rare encounter in order to lead the reader to this historically important moment which the historical views of the rightandleftwingers cannot reveal

亡命ロシヤ人学者グル-プの一つ、ユ-ラシヤ学派の社会理論に北一輝氏との類似性を見た嶋野三郎氏  は、満鉄調査部の社務として、多数のユ-ラシヤ学派の論稿を翻訳、刊行した。その読者中には多数の若き満鉄社員、国軍の青年将校たちがいた。彼らが後に企図した国家改造運動に、この読書が如何程の影響力を持ち得たか、今は推し量る術もないが、この稀有な出会いについて、著者は記してみた。左右からの歴史観では明らかにすることの出来ないこの歴史的に重要な瞬間に、読者を導きたかったからである。


参考 三
合田學著 成吉思汗の遺産とユ-ラシヤ学派


参考 四
エレンジン・ダヴァエヴィッチ・ハラ・ダワン著 成吉思汗傳



日満共福主義 (ユーラシヤ主義宣言、若しくは、ユーラシア主義宣言)
























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